石巻から遠くはなれて

石巻出身東京在住の私が震災後に思う事を書きます

5年目の3月11日に

5年という節目ともいえる日を迎え、一年に一回くらいは近況を書き綴っておいた方が良い気がしてきた。
2012年8月以来なにも書いていなかったが、それ以降のことを覚書しておく。

父の死と改葬

2012年8月18日に父が他界した。このブログを書き始めたのが同年7月31日で、それから2週間の間にいくつか記事を書いたが、その頃に、透析に通っていた病院から母と私が呼ばれ、覚悟だけはしておいてくださいと言われていたので、父がもうすぐいなくなるかもしれないという思いが、このブログを書き始めたキッカケだったのかもしれない。全く気がついていなかったのだけど、こうして日付を見ると、そんな気がする。

お墓は石巻の門脇地区の西光寺にあったが、震災から父の死まで全く連絡をとっていなかったことは以前記事に書いた通り。葬儀は東京で執り行ったのだが、戒名を西光寺の住職にお願いしたいという母の希望もあり、はじめてこちらから連絡をとった。住職が直接家族と話をしてから戒名を考えたいとのことで、母と私が住職と電話でお話をさせていただいた。住職と父とは若い頃一緒に雑誌を作っていた(?)という間柄だったことなどお聞きし、住職の「お父さんのどんなところを覚えていますか?」と尋ねられ、そのときは出張によく行ってたことくらいしか覚えていないなあと思ったのだけど、ふと、母が用事でいないときにうどんを作ってくれたが、その味が母のよりも美味しかったことを思い出したり。

葬儀では、西光寺と同じ浄土宗のお寺のお坊さんにお経をあげてもらったのだけど、西光寺の副住職と親しい方だとお聞きし、奇遇といったらよいのか巡り合わせみたいなものを感じた。また、その方は副住職が石巻で行っている炊き出しにも参加されているとお聞きし、機会があればそのようなお話も伺いたいと思った(のだけど、お寺の名前を失念してしまった…)。

西光寺に連絡をとったことで、なにもしていなかったお墓ともいよいよ向き合うことになった。一般的に移住などでお墓を守っていけなくなった場合にどうするものなのか、よくわかっておらず、母が最終的に父と二人で西光寺の無縁仏に入ると言うので、西光寺に相談してみたところ、お墓の引越し(改葬)というやり方を教えていただいた。改葬することに決めてからは、東京でお墓を探すことになったが、私と夫以外に墓を守る人もいないので、遠くないところの納骨堂にお願いすることにした。

また、10月に四十九日の法要を西光寺で執り行うことにしたのだが、それに合わせて、石巻で、父や母の銀行口座などを解約手続きと、改葬の際に業者にお願いする墓石の解体の打ち合わせなどの対応もした。7月に行ったときにはお墓の場所はわからなかったのだけど、母と行った10月はすぐ判った。以前書いた通り、墓石などは倒れていたものの、きれいに洗われていて、墓石や上の屋根みたいな部分が一緒にお墓の脇に置かれていた。せっかくボランティアの方々が洗ってくださったのに解体するとは申し訳ない思いになった。墓石業者の方に開けてもらって中を確認したところ、骨壷が倒れていることもなかった。ただ、震災のときに海水などで浸水しているので、お骨を水洗いして乾かさないといけなかった。父の前妻と生後すぐに亡くなった赤ちゃん(私の兄)の骨はとても小さかった。前妻のご両親のお父様と思われるお骨が大きかった。銀歯が多かったのだけど、それが磨かれているかのように光っていて、とても60年前のお骨とは思えない、と思ったことを生々しく覚えている。

四十九日の法要には、親戚や父の同僚の方たちがいらした。今は丘陵地に住んでいる、かつて同じ社宅にいた方が「山の方に住んでるから、こっちの方がこんなになっちゃって、なにもできなくて」と突然話されて、こちらがびっくりしてしまった。みな、昔の社宅仲間なので久しぶりに会ってワイワイしていたのだけど、副住職が本堂にみえて、今の門脇の様子を大きな声で話し始めたら、みなシーンと静まり返り、まるで先生と小学校のクラスのように思えた。副住職からは、家族を亡くした人の心情などのお話しも伺ったが、伺うだけで精一杯で何も言えないという思いがした。

改葬は日を改めて行うことにして、墓地の解体が完了した11月に私と夫が車で石巻に行き、まず市役所に改葬許可書をもらい、その後西光寺に行き墓地の現状復帰を確認し、乾かしたお骨を壺に入れるなどした。西光寺の奧さんにもその時にお話ししたのだけど、前妻を亡くしたときに父は24歳だったのだが、どんな気持ちだったのかと、はじめて「父」ではなく、「若い男性」としての一面を知りたいと思った。生前に聞いておけばよかった。

同期会

2013年に高校の同期会があり参加した。石巻に行くたびにホテルに泊まるので、帰省という思いにはならない。しかし、久しぶりに会った同期生たちはみんな温かくて、受け入れてくれてうれしく思った。東京の同窓会(も一度しか行ったことがないが)よりも、人と人の距離が近い集まりに感じるのは、やはり学校があった土地で開催しているからだろうか?2015年の8月にも同期会があったのだが、東京での用事と重なり、東京の用事を優先させてしまい、行かなかった。こんな風に書いてみると、そんな優しい同級生を優先しない私がいけないのかなあと思ったり。

その後

三陸には2014年11月と2015年5月に南三陸に、2015年8月に陸前高田から南三陸を車で訪れるなど、何回かは行っている。たとえば、南三陸の場合は、特に歌津という高架になっている駅(津波で破壊されたもののかろうじてホームの痛々しい姿がみえる)がはじめて見たときにこんなに可愛らしい駅がこんなことになってと思ったことと、その海側にある小さな橋「ウタちゃんはし」を見て昔ニュースでみたその界隈のかすかな記憶(2002年ごろ?にその橋がかかっている川にごまあざらしが来たのをニュースで紹介。たまちゃんにならって?ウタちゃんと命名された模様)が呼び起こされたことで、行きたくなる町になってしまった。南三陸の波伝谷地区の震災前を描いた映画「波伝谷に生きる人びと」も惹きつけられる要因かと思う。陸前高田も元はと言えば、被災した故郷を撮影する写真家を追った映画「未来をなぞる 写真家・畠山直哉」をみて、なので、石巻も第三者の目を通して経験すると違った印象になるのかもしれない。

こんな風に書いてみると、やっぱり同級生に会いたいなとか、親戚のおじさんの飼っている犬はどうしているかなとか、思うので、なるべく早めに行ってみようかなと改めて思った。

また、余計な話だけど、被災した親を迎えに行ったとき、住んでいたアパートの解約、改葬の際のお寺や墓石業者とのやりとり、父の前妻のお父様のお骨の銀歯などは写真に撮影しておくべきだった。どこまで他の人に見せられたかわからないけれど、その時でしか撮影できないものが写っていたはず。
でも、まあ、撮っていないのだから、また今度そんな機会があれば頑張ります。

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投稿日: 2016/03/11 投稿者:

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Who is the author?


石巻出身、東京在住。母校、門脇小学校の校舎解体の方向を知り、今の内に見ておきたいと思うように。
仕事はIT系。エイズ孤児支援NGO・PLASボランティアスタッフとしてWebサイト構築などを担当。
ねこやま猫道として猫写真を撮影、「ねこまんが」を発表。