石巻から遠くはなれて

石巻出身東京在住の私が震災後に思う事を書きます

石巻市八幡町にて

私が子どもの頃の石巻の市街地中心部は駅の東側にあった。長いアーケード(歩道のみ)が続く立町商店街を抜けると左手に観慶丸という3階建ての建物がみえてくる。その辺りからは前方にゆるやかに流れる旧北上川が見え、川に沿って下流に向かうとすぐに川の向こう側に渡る内海橋がある。橋を渡った辺りは湊地区と呼ばれ、渡ってすぐの場所は八幡町といい、ここまで駅から徒歩で15分くらいだろうか。

当時は、立町や観慶丸のある石巻市中央の辺りがよそ行きの買い物をしにいくところであり、川沿いにデパートもあった。ちなみに観慶丸は今は陶器専門店だが、昭和5年に建てられた当時は百貨店であった。日和山の中腹に住んでいた者的には、立町や中央に行くことを「町に行く」と呼び、内海橋を渡った八幡町の辺りも町の余韻が残る地域だった気がする。

5分も歩けば繁華街に出られるという立地からも、また、近くで川開きの花火大会が行われていたのもそう思った一因かもしれない。当時は内海橋が架かる川の中洲(中瀬と呼ばれる)から花火が打ち上げられた。川沿いには料亭のような建物もいくつかあり、食事をしながら花火大会を見ることができた。残念ながら私はいつも橋の上やたもとからしか見たことはないが。

 

そのような八幡町に住んでいた高校の同級生が7月に石巻に行った際に車で案内してくれた。この日に会った際は、なんとなく見覚えがあるような気がしたものの、約30年振りの再会。なお、上の写真は内海橋を渡った川の向こう側の歩道橋のところに掲示された、震災時の浸水位置を表す表示。そして、下の写真はその掲示がどこに掲げられているかを示した写真。

同級生は車に乗ってすぐに大震災の体験を話してくれた。東京にいた私も、いよいよきた、と思う程の大変な揺れだったが、石巻ではそれ以上の凄い揺れで、二回目の揺れが長かったそうだ。地震の後すぐに停電になる。状況が気になる人は自宅に停めていた車のカーラジオを聞いて、岩手の方で津波で家が流されている、など知ったそうだ(が、まさか石巻までそうなるとは思っていなかったようだ)。自宅にいた同級生が避難しようと思ったときには海から川へ津波が来てしまい、外へは行けず、自宅の二階に上がる。水が凄い勢いで高くなり、しまいには乗用車が一階に突っ込んだのがわかり、車内にいた人を車から引きずり出すなどした。水が引かないので自宅の二階で二晩過ごしたが、最初の夜など何の音もしなくて、人がいるのかどうか判らないくらい恐ろしいほど静かだったらしい。また、車が流されていたのが判っていたこともあり、火事になるのではないかと心配だったそうだ。

その同級生の家には、かろうじて二階にまでは水は来なかったものの、一階には車が突っ込む、他所の家の一部が流されるなどあり、全壊。私が行った際には基礎もない更地になっていた。津波の威力は家を破壊することで弱まるのか、同級生の家よりも川から遠いところでは建物が無事だったところもいくつもあった。同級生は、家が無事だったか、人が無事だったかどうかを考えると、もはや「運」としかいいようがない、と言っていた。他の地域の被災者の言葉でも同じような言葉を私は聞いた。曰く、(津波にのまれている人たちがいて、助けを求めて皆手を上に挙げている。にもかかわらず)まるで神様が上から見ていて選んでいるかのごとく、助かる人もいれば、助からない人もいた。

震災から離れるが、今お盆の時期に思い出されるのは御巣鷹山に墜落した日航機のことではないだろうか。そのことから物語になった映画「クライマーズハイ」をふたたび観て思ったが、あの状況は戦場のようなものであったのかもしれない。東日本大震災の後の石巻を見た時にも、この風景は戦場と言うほかないと思った。

石巻市街地から中瀬に架かる内海橋をみる

石巻市八幡町の現在

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投稿日: 2012/08/14 投稿者:

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Who is the author?


石巻出身、東京在住。母校、門脇小学校の校舎解体の方向を知り、今の内に見ておきたいと思うように。
仕事はIT系。エイズ孤児支援NGO・PLASボランティアスタッフとしてWebサイト構築などを担当。
ねこやま猫道として猫写真を撮影、「ねこまんが」を発表。